カーテンの隙間から狙いを定めたように、両まぶた目がけて朝陽が射しこんでくる。
これは一緒に暮らしている彼が仕掛けたもの。寝起きの悪いわたしへのさりげない配慮であるらしい。たしかに効果は絶大だ。ちょうど顔のあたりだけに降り注ぐ新鮮な陽光を拝受すると、体は自動的に大きな伸びの体勢をとる。そうこうしながら忘れないうちに、と両耳を引っ張ってはぐるぐる回すストレッチを行なう。寝起きにこの動作をするようになってから低気圧による片頭痛がかなり改善された。メカニズムは何度説明されても頭に入らないのだけれど、心と体が素直に喜んでいるそれだけで十分だと思っている。
6:00 起床
6:10 軽いストレッチ
6:20 白湯を飲む
6:30 ヨーグルトにバナナを入れて食べる
7:45 手帳でスケジュールの確認
7:50 身支度
8:10 出発
これがバイトがある日の朝の流れ。これ以外にも細かないろいろをルーティン化しているけれど、書き出すときりがないのでやめた。
恋人のカオルは5時に起床し、6時の時点で既に職場近くのジムへ出かけている。
彼と暮らし始めるまで、わたしにルーティンなんてものは存在しなかった。その日その時の状態で本能的に動く生活。副業をしながら正社員で働いていたこともあり、余裕がなかったというのがわたしなりの言い分だった。
その頃はアパレルショップの副店長をしていた。シフトは店長と交代で、出勤時には店長代理として働くのでそれなりに責任もやりがいもあった。自分の体よりも、まずは店を良くすることが最優先だった。しかし本来の希望は副業であるイラストレーターの仕事を軌道に乗せることだったので、運よくイラストの仕事がまとまって入ったり、継続的な依頼が複数入るようになってから退職を決意した。適度に力を抜くことが難しい性格であるにも関わらずマルチタスクを継続していたことで、気づけば骨と皮のような体型となり疲れやすく、思考も曇りがちになっていた。それまではなんとかぎりぎりの状態で綱渡りをしてきたけれど、限界直前のあたりに到達していたのだ。
運営会社の方針で、副店長から上のスタッフが退職する際にはエリアマネージャーが1カ月ほどその店に滞在することになっていた。店舗の現状確認、一時的に戦力不足となる部分のフォローや引継ぎ内容の把握、管理をするためだ。
担当のエリアマネージャーは当時、28歳という若さで3店舗を統括している敏腕だった。基本的には売上の最終管理と店長指導が主な仕事という雲の上の存在であった為、これまで一度も顔を合わせたことはなかった。また、エリアマネージャーが直接出向かないということは店がうまく成長している証でもあった為、誇らしい気持ちでもあった。
店長から事前に最低限の説明は受けていたものの、初めて会った日の衝撃は忘れられない。
売り場の裏にあるストックルームで在庫整理をしていたわたしは、ふと表が騒がしくなっているのに気づいた。トラブルというよりも、歓声のようなものに近い。その日は日曜日でスタッフ全員が出勤していたが、ストックルームを見渡しても他のスタッフの姿がない。皆表に出ているようだった。
いくら広い店内とはいえ、あんなに騒がしく接客していればその他のお客様が不快に思われてしまう。注意するため売り場へ出ようとしたその時。すっと扉が開いた。
勢いづいていたわたしは急停止することができず、正面にあらわれた背の高い男性に抱き留められた。見上げると、彼は両手に花と言わんばかりにスタッフを複数名引き連れて立っていた。驚きで声も出せず咄嗟に後ろへ下がると、それを合図のように花束よろしく寄り添っていたスタッフたちが男性をストックルームの奥へ誘った。
彼女たちの熱気にやや圧倒されながらもその人はこちらを振り向いて「君が、丘さん?」と穏やかな声で尋ねた。
ぞっとするほど整った顔立ちをしている。
これまで出会ったことがない美しさを前に立ちすくんでいると、彼はゆっくりとスタッフたちに向き直り、「案内してくれてありがとう助かった。もう大丈夫だから、各自仕事に戻りなさい」と言った。
彼女たちはうっとりとした表情でうなずき、わたしに頭を下げながらストックルームを出て行った。
「マネージャー、、、ですか?」
彼はすっとこちらを振り向き微笑みを浮かべながら頷いた。よくできたフランス人形を彷彿とさせるその笑顔は、柔和な印象であるにも関わらず透きとおったガラスのようにどこかひんやりとしていた。
これが、現在の恋人であるカオルとの出逢いだ。
退職までの1ヶ月、週に2度ほどカオルはわたしの引き継ぎに同席し、店長との打ち合わせや確認作業を行なっていた。彼の人となりを知れば知るほど、畏敬の念はさることながら、親しみさえ感じるようになった。当初ひんやりと感じたその笑顔は、ただ単に端正すぎる顔の造りと彼の人見知りが原因だったことも判明した。〝人見知りは相手に感じさせるものではない、ましてや主張するものではない、だが完全に克服できるものでもない。ひっそりと努力を重ねて飼いならすものだ〟というのが彼の自論だったが、わたしの目にだけは彼の人見知り要素がありありと映っていたのだからなんだか微笑ましい。
初対面の人間に緊張したり何を話して良いのか分からなくなったりするのは病気でもないしましてや個性でもない。人の中で生活している以上、自覚して一定の基準を保つこと。
「いくつかのシーンや対象者に合わせた会話のパターンをストックしておけば問題ない 」と彼は言った。
「でも人見知りなんですね」
わたしが顔を覗き込むと、彼は少し赤くなりそっぽを向いた。そして、
「できるかぎり感じさせないよう努力しているつもりだ 」とぼそぼそ言った。
知り合って半月の時点で、天才と呼ばれる彼の不器用で努力家な側面に触れ、急激に惹かれている自分がいた。
退職まであと1週間というところでそれは突然知らされた。
店長と二人、金庫室で作業をした後の帰り道。 いつも朗らかな彼女が思いつめた表情で「話したいことがあるの」と言った。
巨大なショッピングモールの休憩室は、各店舗の閉店時間を過ぎていたこともありガラガラだった。壁際に腰かけると、すぐ横にあった自販機で店長がホットココアを買ってくれた。遅番の時間帯でわたしがよく飲んでいることを店長は知っていたのだ。
「マネージャーには許可をとりました。私から提案したの」
唐突な始まりに困惑する。紙コップに入ったホットココアを両手で抱え込むようにしっかりと持ちながら、わたしたちは向かい合っていた。
いつも必ず要件から話すはずの彼女が遠回りな説明から始めることは稀だった。そしてそういうときは大抵迷いがあるとき。長らく右腕として働いてきたのだから分かる。少女のような朗らかさをもちながら、職務中は落ち着きがあり思慮深く、皆のマザーのような風格がある彼女のことをわたしは尊敬していた。彼女がいなければ仕事をやりがいあるものだと感じることもなかったかもしれない。
「マネージャーのことですか?」
数分の沈黙が耐えられず、問いかけた。
「そう。退職前にこんな話をするのもどうかと思うけれど。これは、相談です」
そうして再び、紙コップが溶けそうなほどの沈黙に彼女はすっぽり包まれてしまった。
冷めかけたホットココアを再び温めなおそうと両手で熱心に紙コップをこすり始めたわたしを見て、彼女は観念したのか一気に話し出した。
「マネージャーはね、女性なの。
相談内容は、私がこのことをスタッフに話しておきたいと思ってることについて。
これはパーソナルなことだしジェンダーのことでもあるから、わざわざ公開することはおかしなことだと重々承知してる。
でもあなたが退職するまでのこの1カ月間、マネージャーが出勤している期間中ずっと、店のスタッフの色めき立った様子を見て、このままではまずいと思い始めたのよ。
ただの憧れであればいいの。芸能人に思いを馳せるみたいに。やる気が出て仕事にも良い影響が出そうだと最初はそう思って見守っていたのだけれど。次第に本気で男性として意識しているメンバーが増えて。メンバー間でギスギスした様子が店頭でも見受けられたり、シフトをマネージャー出勤日に変更してほしいというメンバーまで現れて…。みんな無意識であなたには気づかれないようにしていたみたいだけど」
そこまで一気に話し終えた彼女は、すっかり冷えきったココアをごくごくと飲みほしてこちらを見た。わたしは絶句していた。何よりも、そんな事態に気づくことができなかった自分に衝撃を受けた。これは、わたしがマネージャーと過ごす時間に現を抜かし、職務怠慢をしていた結果ともいえる。悔しさがこみあげてきて、わたしは思わずテーブルに額を押し当てるように頭を下げた。
「教育指導はもう終えている段階だし、あなたに責任はないのよ」
頭上から女神のように穏やかな声がおりてくる。ゆっくりと頭を上げると、店長はほほ笑んでいた。そして困ったように眉をひそめながら言う。
「まったく。責任感、人一倍なんだから。正直、そんなあなたがいなくなるのは多大な損失です」
マネージャーのイケメンすぎる問題については入社当初から物議をかもしていて、実は店長も社長から朝礼で皆に事前共有するよう言われていたそうだ。しかしジェンダーのことをわざわざ説明することに違和感があり社長に意見したとのこと。社長も店長には一目置いていたため、任せる、と折れたらしい。
〝結果として失敗だった〟 と店長は肩を落とした。
「あなたが育て上げた大切なメンバーたちをこんな目に合わせてごめんなさい」そう言って頭を下げた彼女にわたしは慌てて、彼女たちと面と向かって話をしたいこと、原因が本当にその件であるかどうかも含めて確認したいことを懇願したが、店長はきっぱりと首を振った。
「言い方は悪いかもしれないけれど、あなたはもう退職するスタッフなの。これからのことは私が担当します。でもね、やっぱり事前にあなたに相談しておけば良かったと後悔してる 」と困り顔で笑った。
わたしはまぎれもなく、店から見ても会社から見てもメンバーから見ても、もはや辞めるスタッフなのだ。それは動かしがたい事実だった。
その後、全体告知は見送って該当するメンバーへの個別面談を店長が行い、必要だと判断した場合にその場で説明するということになった。
送別会の帰り道、遅れて車で駆け付けたマネージャーに家まで送ってもらうことになった。
「良い送別会だった」
マネージャーはハンドルを握りながらにこりともせずにそう言った。これは嫌味ではなく本心だ。わたしは知っていた。ちなみに誉め言葉であることも分かっている。この頃には、心にないことは口に出さない人であることを理解していたから。
彼が女性だろうが男性だろうが正直あまり関係がなかった。店長から告げられたとき、まっさきにわたしの脳内を支配していたのはメンバーたちのことと、不甲斐ない自分への悔しさと後悔だけだった。休憩室を出て店へと戻る帰り道、思い出したように「そういえば、マネージャーは女性だったのですね」と言ったわたしに店長は「あなたらしい反応 」 と言ってふくよかに笑った。
わたしが驚いたり衝撃を受けなかったのはきっと、彼の内部が完全に男性であることを感じとっていたからだと思う。
整然と片付けられ塵ひとつない車内の中では、沈黙までもが清潔に思えた。
彼の流れるようなハンドルさばきは車に乗っていることを忘れてしまいそうな心地だった。わたしはというと先ほどまでの祭りのような、爪の先まで活気に満ち愛に包括されたような送別会を思い出しうっとりとしていた。マネージャーはそれに気づいたようで、そのまま何も言わずにそっとしておいてくれたのだ。家までの案内が必要な道に差し掛かったけれど、わたしはどうしてもこの余韻に浸っていたかった。
「帰りたくないです」
歴代の彼氏にも言ったことがない一言が出たのは、家に向かうための曲がり角まであと1分ほどのところで、赤信号になった瞬間だった。マネージャーは面食らった顔をしてゆっくりとこちらを見た。はじめて人間らしい表情をした彼は、しかし一瞬の間を置いてから「僕が明日休みだと知っていて言ってるな?」とほんのりおどけて返した。そんなつもりはなかったが、とつぜんのあどけない笑みに胸の奥がきゅうと引っ張られる気持ちになったのは言うまでもない。
「じゃあ少しドライブするか」
青信号になり、またいつものポーカーフェイスに戻った彼はそう言ってなだらかにアクセルを踏んだ。車内でわたしは、心地良い酔いが回り始めているのをいいことに、ずっと聞きたかった質問を浴びせかけた。ドイツと日本のハーフであること。出身は京都で東京へは高校を卒業してすぐに上京したこと。ご兄弟はお兄さんが一人いるが今はドイツでお父様と暮らしていること。お母様は厳格な方で、離婚されてから女手一つで育ててくれたこと。新卒で他店に就職したのちバイヤーの経験を経てマネージャーとなり、引き抜きを受けて現在のエリアマネージャーのポストについたこと。彼はとめどないわたしの質問シャワーに淡々と返答をくれた。だがある話題にさしかかったところで声色を変えた。
「あの時は、本当にすまない」
マネージャーに執心したスタッフ間のトラブルについてだ。深い意味はなく笑い話にしたつもりが彼の表情は曇っていた。
「もっと早く君に謝るべきだった。かつ共有すべきだった」
いいえ。わたしははっとしながらも落ち着いて答えた。
「店長が口止めしたことは知っています。わたしの性格を熟知している人ですから。それに」
それに?マネージャーがちらりとこちらを見る。
「マネージャーがかっこよすぎるのはマネージャーのせいではないです」
そう言うと、彼は初めてくくくと声を出して笑った。「そんなに潔く言われたのは初めてだ 」
なぜか自分のことのように堂々と胸を張り、どや顔で言い放ったわたしはおそらく鼻孔が開いていたかもしれない。
「僕が女だってこと、特に驚いていなかったと聞いた」
数分の沈黙の後、整った呼吸で彼は言い、わたしは深くうなずいた。
本当に、わたしにとって重要なことではなかった。性別に関わらず、マネージャーはこれまでの人生で出会った誰よりも尊敬できる人だった。落ち着いた声色で放たれる冷静な判断とその洞察力、他者の得手不得手を理解し必要な時に手を差し伸べ、自身の欠点には容赦なく鞭を打ち隠れたところでストイックに自己研鑽を続けているところ。鋭い鷹の目で物事を見すえているにも関わらず、どこか抜けている鳩のような一面もあったり。たしかに180cmの高身長にすらりと伸びる手足も、人間離れした整った顔立ちもかなり魅力的だが装飾に過ぎない。もはや恋やら愛やらが挟み入る余地がないほど、当時のわたしは彼の人となりに圧倒されていた。
午前0時をまわり、さすがにそろそろ帰らなくてはならないとお互いに悟った頃。近くのコンビニで飲み物を買い、家の場所を車のナビに入力しているとき、彼はそっと話し始めた。
なぜ男性として生きることにしたのか。胸の切除を行ないホルモン注射をして、副作用のリスクを受け入れながら自身の身体的性から最も遠ざかる方法を取り現在に至っていることについて。
「あれは高校2年の頃だった。卒業後は大学には行かずすぐに働いて費用を返すことを条件に、母親に頼み込んで手術を受けた。自分の心と体が一致していない状態というのが、どんな感じか想像したことはあるかな?」彼はエンジンをかけないまま、こちらを見ずに質問した。わたしはふるふると首を振った。
「たとえば、物心ついて外へ出かけるときに必ずサイズの合わない靴を与えられるとする。あるときは大きすぎて転んだり、あるときは小さすぎて傷だらけになる。でも自分に合うものは一向に与えられない。潜在的に外へ出ることが怖くなってくる。だがそれをうまく言葉にすることはできない。
もう少し大きくなり、言葉や態度で伝えられる程度になったころ、靴の問題はうまくやれるようになってくる。大きいサイズのときには折り曲げたり詰め物をしてできるかぎりフィットさせ、小さいときには切れ込みを入れてかかとを出して歩けば痛くない。これは想像上でのことだからこれらの工夫は誰にも見えないし咎められることもない。
ちょうどそのころ、次なる難関がやってくる。それは、世界のすべてのものが利き手ではないほうの手の向きにすげ替えられてしまうということ。言うならばあべこべで、周りの人間は僕があべこべに感じていることを知る由もない。なぜなら靴のときと同じで、皆はそれぞれ自分に合うサイズや向きの世界の中で生きているから。だからこそ、利き手ではないほうの手や向きで懸命に生きる僕はひどく目立ち始める。そして彼らはその様子を理解できずに面白がって笑う。その明らかな違いを指差して。
しまいに僕は僕自身を疑いはじめる。適合できない自分がどうかしているのではないかと。男性性と女性性が根本から入れ違うということは、それほど難解で残酷なことなんだ。僕にとって」
そこまで話し終えても、マネージャーはこちらを見ずにぼんやりと正面を見ていた。コンビニの蛍光灯が発する目に痛いほどの光へ向かって、大型の蛾が数匹飛び込んでは離れていく。
「この内容でプレゼンしたんだ。僕がどれだけ生きづらい人生を送ってきて、これからは自分の心身に合った生き方を選びたいことについて」
「お母さまにですか?」そっと尋ねると、彼はためいきのように、そうだ。と頷いた。青白い灯りに照らされた彼の横顔は、ぞっとするほど美しく浮世離れしていた。
何かを発言することがおそろしく感じるほどの沈黙が流れていたけれど、わたしはその白すぎる横顔を、見とれるでもなく恐れるでもなくただただ〝どうにかして守りたい〟と思っていた。
「えらかったですね」
数分後、彼がエンジンをかけようと動いたそのとき。なぜだか急に、消え入りそうな声で発していた自分に驚いた。彼も驚いてこちらを見ている。
「そんな小さなころから。自分と世界の違いを見据えて、それを分かるように言葉にして。ちゃんと伝えることができたんですね。マネージャーは」言い終えたころ、わたしはさらに驚くことになる。
彼の左目から、水滴がこぼれたのだ。すぐに涙と気づくことができないほど、それは神聖で透明な色をしていた。実はそれまで彼の表情筋は、微笑みや笑顔、困り顔をインプットされたアンドロイドのような印象だった。端正な顔立ちだからと気づかないふりをしていたけれど、本当はそうではなかった。彼は案の定、自分の目から涙がこぼれていることに気づいていないようだった。ぬぐいもせずにじっとしている。しかし何かに貫かれたような、信じられないというような顔をしたまま前を見ていた。
「すみません。えらそうでしたね。ごめんなさい…」その様子に、怒ったのかと思い咄嗟に謝ると、彼は急に両手で顔を抑えて笑った。さっきのくくくという笑い声に近かったけれど、泣いているようにも見える、不思議で不器用な笑い方だった。両手の向こうの表情はもはやうかがい知れなかったけれど、零れないよう必死に抑えているその様子は、地面に1人きりでしゃがみこみ泣いている少年のようだった。
付き合うようになるまで時間はかからなかった。月並みな表現だけれど、わたしたちはパズルのピースのようにお互いがお互いにぴったりな存在だった。実際には自分たちのパズルがどれだけ欠けているのか分からないので、お互いに最後のピースかどうかは分からないけれど、わたしたちは心も体も、カチャリと気持ちの良い音を立てて一つになったのだ。
彼が笑いながら泣きじゃくっていたあの日のことを、わたしは密かに〝少年還りの日〟と名付けている。
「はじめて褒められたんだ」
初めて体を重ねた夜に、彼はその日のことをぽつぽつと話してくれた。
「ずっと、誰かにああ言ってほしかったんだとあの日気づいた。理解されなくてもいい。だけどただ、あんなふうに認めてもらいたかった」
見かけによらずコシのあるわたしの髪を撫でる手を止め呟くように言う彼の声は、かつて少年だった彼自身に語りかけているようにも聞こえた。
交際してから半年後に同棲を始めた。彼のマンションは本社に近い場所にあった。
仕事ができる男の一人暮らしを連想させる、簡潔で清潔で洗練された部屋だった。物は必要最小限で、かつ厳選されたそれらも普段は定位置にすっきりと収納されている。実家ではこまごまとした小物や本、イラストなどに囲まれて暮らしていたわたしが、この整然とした世界でやっていけるのか不安しかなかったが、それは杞憂だった。
リビングダイニングと寝室の他にある2部屋のうち、使っていない1部屋。その中であれば、何を飾ってもいいし好きなだけ自分色にしてよいと許可をもらったのだ。
「子どもが住み着いたみたいになってごめんね」と夕食のときに謝ると、彼は柔らかな表情でわたしの頬を優しく撫でた。
バイト先はすぐ近くにある図書館を選んだ。清掃員として働いている。これまでの仕事に比べるとずいぶん異なる職種だが、働くことそのものが好きであることと、固定された人間関係に疲れてイラストの仕事に支障が出ることだけは避けたかったのでぴったりの仕事だった。おまけに本や絵本に囲まれて仕事ができるし、たまにある朗読会などのイベント事にも参加できたりと、願ってもない場所だ。司書のメンバーとは基本的な勤務時間と仕事内容が異なるため、馬が合う人とだけ仲良くできるのも利点である。
そして何より勤務時間が変動せず一定で、かつ短いという点でも完璧だった。朝9時から図書館の開館時間10時までに一通りの清掃を終わらせ、日中は全体を定期的に見回ってこまかな片付けや掃除を行ない、決まったタイミングで館内のトイレや水回りを順番に掃除する。午後は事務所内の掃除、夕方頃にもう一度館内を見回って乱れを整えたり窓に汚れがないかなどのチェックとともに明かりの調節をして16時に退勤する。
清掃員は交代出勤のため、わたしは土日と火、水曜日の週に4日勤務。土日はカオルも仕事なのでちょうどよく、かつ毎週月曜日は閉館日ということもあり、残りの木曜日と金曜日にイラストの仕事を集中して行なうという良いサイクルができあがっているのだ。
16:30 夕飯の買い出し
17:30 帰宅
18:00 夕飯の準備
19:00 入浴
20:00 フリータイム
21:00 夕食
22:00 夜ヨガ・瞑想
22:30 就寝
ヨガも瞑想も、カオルから教えてもらった。彼の素晴らしいところは、膨大な知識や習慣を相手が望むまでは無理強いせず、かつ望まれたときには名トレーナーのように無駄なく最適な方法で指導してくれるところだ。わたしは良かれと思って人に強要する癖があるため、彼の背中を見て改心した。
彼と組み立てたカリキュラムに沿って日々を過ごすことで、生活習慣や体質の改善が目に見えてできるようになってきた。半ば人生を更生していると言っても過言ではない。
しかしわたしにはなかなか改善できないものがある。
生理の1週間前頃から起こる不調。PMSと呼ばれるもの。月経前症候群というらしい。副店長として仕事をしていたころは、毎日チョコレートと栄養剤を摂取していた。その頃に比べれば落ち着いたかと思いきや、まだまだこの浮き沈みに苦労させられている。カオルはホルモン調整しているので同じ現象は起こらない。しかしいろいろと調べて的確なアドバイスをしてくれる。だが年齢もあるのだろうか。劇的な改善、というところまで至るには根気と時間が必要だ。
主な症状は、頭痛、食欲不振、やる気が出なくなること。特にやる気の低下はイラストの仕事に影響を及ぼす死活問題である。カオルの助言で、締め切りが先であったとしても前倒しで着手し、PMSの期間に重要なアイデア出しや仕上げ作業を行わないようスケジュール調整をするようにしてからは少し楽になった。
頭痛は低気圧の日と重なると特に猛威をふるう。このタイミングで起こる頭痛は片頭痛であることが多く、これは生理や気圧の変化が引き金になり脳の血管が拡張して神経を圧迫することで起こるのだそうだ。これは後頭部やこめかみに保冷剤を当てたり冷感タオルを頭に巻くことで緩和できるようになった。
食欲については、一定量が食べられなくなるとともに食に関心がなくなるという現象が起こる。これはなかなかコントロールできない。しかし例外が2つだけあった。
それはおにぎりとクッキーだ。
おにぎりの具には、わたしのあだ名でもあるおかかを手作りする。かつお節4gに醤油を小さじ1加え、さらに刻み海苔を適量混ぜ合わせる。そしてあつあつのごはんに混ぜてしばらく冷ましておく。これでかつお節と海苔から出る旨味のダシがお米粒に浸透するのだ。粗熱がとれたころ、満を持して握り始める。手のひらにすっぽりと収まるサイズの三角形。角が心なしか丸みを帯びていて愛らしい。仕上げに煎りゴマをパラパラと振りかけて完成だ。タッパーに並べてしばらく眺めてから、蓋をして冷凍庫にしまう。これがPMS期のわたしの主食になる。これにお味噌汁やスープなどの汁物を添えて完成したお昼を食べ、夕飯を食べ、自分を取り戻してゆく感覚を手に入れるのだ。
カオルは口出ししない。手のひらサイズのおかかおにぎりたちをせっせと口に運ぶわたしを優しく眺めている。幼いころから家事全般をこなしていたカオルだが、どう考えてもわたしのほうが時間を所有しているため、自ら食事担当として名乗り出た。かくいうわたしも物心ついたころから両親が共働きだったこともあり、料理は日常的な行為だったのだ。
小学校から帰宅するとまずお米の仕込みとお味噌汁をつくるのが日課だった。お米と汁物があればなんとかなるしそれらが人の根底を支えていると本気で思っていた。
おかかおにぎりのストックが少なくなるころ、本格的な症状がやってくる。甘いものが無性に食べたくなるのだ。普段はあまり食べていない分、1カ月で均すと過剰摂取にはならないはずだけれどそれでも後ろめたい。それでも食べたい。もう一人の自分とのせめぎあいは毎月あっさりと勝敗がつく。カオルと暮らし始めて、手作りのものを喜んでもらえる嬉しみに改めて気づけるようになった。そこで市販のお菓子を買い漁るよりも、せっかくならば作ってしまえとはじめたのが手作りクッキー。しかも、一刻も早く食べたいという衝動とともに台所に立つため、目分量もいいところだしかなりワイルドな造作になる。必然的にどこまでもシンプルに作りたいという欲求もこみ上がる。ぼんやりしていても急いでいてもできあがるよう、徹底的に簡略化した。そうしてその手順はいつのまにか儀式のようになり、わたしの深みを救ってくれるようになった。
作り方はこうだ。まず透明袋を用意する。そこに薄力小麦粉150g、砂糖40g、バター40g、卵黄1個、牛乳50ccを全て入れて揉みながらよく混ぜ合わせる。オーブンを170度で余熱開始。袋の上から麺棒で平たく伸ばして厚み5mmほどにしたら、 成形しやすいよう冷凍庫で5分だけ置く。取り出したら袋の片面に端からはさみを入れて切り開く。そのままクッキー型で型どりをして、残った破片はまとめて手で丸め平たくして丸型に成形する。クッキングシートに並べてオーブンで10分~15分程度焼く。全行程の所要時間は多く見積もっても約30分。実際に生地をつくるまでは10分もあれば完了できる。
うさぎのクッキー型を愛用しているが、雑に扱いすぎるのか焼き上がりはなんとなくでこぼこと仕上がる。でこぼこうさぎと名付けられたそのクッキーたちはなんともいえない愛らしさがあり、お気に入りのクッキー缶やガラスの入れ物に入れて保管をするとテンションが上がる。だが食べるのには躊躇しない。この単純で豪快なレシピを持ち合わせていれば、いつだってキッチンをうさぎ畑にすることは可能なのだから。
このようにしてわたしは波立った精神をよしよしと撫でる行為を毎月キッチンで行なっている。うさぎたちはその間、そよそよと透明なひげを揺らして、思い思いのポーズで軽やかに跳び回っている。
3日目のうさぎはホットミルクにつけて食べたりジャムやはちみつをかけてみたりして楽しむことにしている。甘いものが苦手なカオルも、甘さ控えめのこのバタークッキーだけは好んで食べてくれる。わたしに気を使って、うさぎではなくその他の丸い形を率先して食べている様子をみるとさらに心は和んでゆく。そうこうしている間に生理がやってきて、おそろしい生理痛に体を乗っ取られる前に痛み止めを服用する。痛み止めが戦車のように勇猛果敢に生理へ挑んでゆくその間、少しでも戦力となれるようお腹と腰にミニカイロを貼り付けながらイラストの続きや次回の構想練りに励む。
そんな月の満ち欠け、潮の満ち引きを毎回繰り返し、わたしはわたしを連れて生きている。もはや自分自身が海やお月様に変身しているような気持ちだ。
そばに愛する恋人がいようといまいと、わたしがわたしを何よりも認識するこの期間。そうっと深い場所で一人きりを噛みしめてから、やがてゆっくりとターンをするようにして二人暮らしの日々へと帰還するのだった。
ツナちゃんから返信メールが届いた。内容は来月行われるSayuのワンマンライブについて。現地で落ち合う予定になっている。
ツナちゃんはひょんなことからSayuのライブ会場で知り合った友人だ。以来、定期的にご飯を食べたりライブでは必ず顔を合わせている。
わたしにとってSayuは特別なアーティストで、誰にも話していないが今最もインスピレーションを得ている人物である。もしかしたらわたしの描く絵はどことなく彼女の世界観に引っ張られているのかもしれない。それをまわりに知られるのがこわくて、知り合いや友達には一切話していない。だからこそ、Sayuつながりで偶然出逢ったツナちゃんとは心底安心して話ができる。
わたしは名のある芸術学校を出ているわけでもないし絵画を一から学んだこともない。すべて独学である。ひと昔前まではそれでも作品が認められれば成功できた。けれど昨今は、ほとんどの著名な作者が名の知れた芸大出身であることや高学歴であることに危機感を覚えている。情けないと分かっているけれど、この歪な感情は誰とも共有したくなかったし励まされたり叱咤されたり受け入れられることさえもおぞましいと感じている。
カオルにも話していない。
外側へ出したくない内側の問題は、自分で吐き出したいと思うまではそのままでいいのだと、今も昔も変わらず思っている。無理やり話したって良いことはないのだ。内側に巣くっている黒いそれらが自然と消化される日は、必要であれば必要なときにやってくる。きっとそれでいいのだろう。
ふと携帯の着信音が鳴った。メールやSNSのメッセージがメインの昨今、わたしのまわりで電話をかけてくるのは仕事関係の人だけ。キッチンからリビングのソファまで小走りで駆け付けて受電のボタンを押した。
おしおちゃんだ。彼は、来年出す予定の絵本を担当してくれている編集者で、本名は小野志穏という。
〝丘、花と申します。おかかと呼んでください〟始めて挨拶を交わしたその日、決まり文句よろしくそう言うと、彼は面食らったような顔をしてからすぐに、
「小野志穏と申します。おしおと呼んでください」と言ってにっこりとした。べっ甲の丸眼鏡が似合う柔らかな眼差しと、漫画に出てくるようなくっきりとしたえくぼが印象的だった。その時、自分の内側から不思議な嬉しさがこみあげてくるのが分かった。
わたしは接客業に長く携わっていたので人見知りをしない性格だと思われているが、実はぞっとするほどの人見知りである。人見知り論についてはカオルから叩き込まれているけれど、自分と同じにおいのする人間とそうではない人間とを瞬時に嗅ぎ分け潜在的に選り分けてしまう癖はどうしてもコントロールできない。
おしおちゃんは完全に前者だった。仕事以外にも定期的に食事をする。飼っている猫の写真をねだり、スランプのときにはその猫を人間に見立てたイラストを描くと脱出できるというジンクスを与えてくれた張本人でもある。
「おつかれさまです。寝てました?」
6コール目で電話をとったわたしに、昼寝でもしていたのかと思ったらしい。
「でこぼこうさぎ作ってました」
わたしがぶっきらぼうに答えると電話口でわざと、ざわついた雰囲気を出す音が聞こえた。
「あら大変なときにすみません。でも怯まずこのままつづけますね」
おしおちゃんはわたしのPMS期のひどさを知っている。そしてこれまで何度となく犠牲になった一人でもある。飄々とふざけながらも仕事モードへ入ってゆく。
「再来週の打ち合わせなんですけど、うちのボスが同席することになりました。以前見せてもらったポートフォリオと最近の作品をいくつか持ってきてもらってもいいですか?」
こんどはこちらがざわめく番だった。ボス?編集長さんということ?
わたしのプチパニックを察したのか、おしおちゃんはゆっくりと穏やかな声色で言った。
「編集長があなたの絵を気に入って。今回の絵本以外でなにか面白いことができたらと思案しているみたいなんです。チャンスですね」
彼が話す言葉はいつも不思議とハッピーエンドに向かう漫画のそれを連想させる。現実味がないくらい特別な光をまとっていて、次の展開に耳をそばだてたくなる。
「分かりました。持参します。一気に緊張感。喜び」
接続詞が唐突に不足して片言が混じるとき、わたしはわたしが考えているよりもずっと嬉しがっているのだと、カオルがいつか教えてくれたことを思い出していた。
おしおちゃんもなぜだかそれを知っている。潜在的に。もしも前世があったなら、わたしたちは兄弟だったのかもしれない。
「ふふふ。新しいタイプのことをしたいみたいだから、ラフ画も含めて幅広いテイストのイラストが見れたら尚良いと思います。まあ、 あまり気負わないで自然体でね。それでは楽しみにしています」
電話を切って窓に目をやると、午後の日差しが夕暮れの方へ移行するところが見えた。ゆず、ぽんかん、そして蜜柑のような色の移り変わりをしばらくぼんやりと眺める。
そして打ち合わせが2週間後であることにそっと感謝をして、夕飯の支度を始めた。
夕飯は野菜の天ぷらだ。てんぷら粉を使わずに、冷水と小麦粉、片栗粉と塩でさっと作る。粉末だしを小さじ1加えるのがみそである。でこぼこうさぎを無心で作っている時と同じで、なぜだか分からないが揚げ物をしていると心が穏やかになる。揚げることに全集中しているからか、その間は世界とわたしの隙間にある不協和音が遮断され、天ぷら油が発するこぽこぽとした水音に導かれた独特の静寂に包まれている感覚がある。
カオルは21時頃帰宅した。颯爽とシャワーを浴びてダイニングテーブルに腰かける。ごはんやお味噌汁、天ぷらを食卓に並べていると、ガラス瓶に入ったでこぼこうさぎを発見された。
「おいで」
冷める前に食べたいタイプの人なのに、この時期は特に優しい。わたしは床に膝をついて、その筋肉質な胸元に顔をうずめた。彼の長い指がゆっくり静かにわたしの髪を撫でる。ただそれだけで許された気持ちになれるのだから不思議だ。
心が満たされるのを確かめてからそっと立ち上がり、席について晩餐の乾杯をする。
カオルは日本酒をお猪口に1杯。わたしは炭酸水をグラスに1杯。これはわたしたちのひそやかな恒例行為となっている。今日も一日が無事にすぎたこと、それぞれが無事に目の前に座っていることを天に感謝する。二人とも無宗教だけれど、これは人間として必要な理念だと思っている。同棲初日に彼が教えてくれた。わたしも納得して、今では生まれたころからの習慣のように自然体で行なっている。
その日は、おしおちゃんからの嬉しい報せについて話した。カオルは目を細めて笑う。ここ半年で、ずいぶん穏やかに笑ってくれるようになった彼に、ふと胸がいっぱいになる。これには全然慣れない。慣れなくってもよい心の揺れだと思う。
その夜は心身ともにしっかりと絡み合った。とびきり強くてとびきり優しい獣のような彼の四肢に抱きかかえられたわたしは、無防備なままふかぶかく眠った。
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